お知らせ


2025/05/02

成功体験

ひと昔前と比べて、昨今の教育現場では真逆のアプローチが進んできているように思います。

否定することをやめて自信をつけてあげる必要がある。成功体験を積ませてあげる必要がある。などです。 

「体罰当然」や叱って聞かせるなどの教育者の態度は、日本の古くからの指導文化や子供への感覚がずいぶん高圧的だったが故の結果なので憎めない部分もあります。 

僕自身、野球でそういう状況に身を置いていました。そこではいかに叱られないようにするか考えていた時間を過ごし、本当に無駄だったと気づかされます。塁に出ると怒られるし、凡打も怒られるので、セカンドライナーを打って仕方ないと思われるようにしていました。 

うまくなりたいと思ううえで、叱られたくないと思うほどの邪念はないでしょう。 

しかしここからが難しいのです。いくらかの生徒を見ていて、始めは勢いよく始めるのですがうまくいかない時間が続くとやる気を失ってしまいます。 上手くいったことをほめてばかりでも次第に評価されることへの劣等感を感じます。

これは成功にとらわれた現代教育のひとつの欠陥なのかもしれません。 

何かを上達しようとするとどうしても壁に当たります。コツの壁、時間の壁、経験の壁。それまでがうまく行くと余計に、その壁が突破しがたいものに感じるのでしょう。


うまくいかないからやめる。というのは小学生くらいでは効果的なこともあるかもしれません。楽しい事を存分に味わってほしいからです。ランドセルを背負う年代の子達はとことん笑っていてほしいです。

しかし中高生では少し事情が変わる気がします。うまくいったとか楽しかったという基準で物事を図らなくなるからです。自身の中にも、楽しいけどうまくいかないということは次第にストレスになるでしょう。

大人になればいよいよ成果でしか物事を図られなくなります。中高生とはその過渡期であり、大人社会の適応期間だと思うのです。


その時に大切なのは成果を出すことの味わいを覚えることなのかなと思います。その過程では失敗は避けては通れないですし、うまく乗り越えられればそれまでの辛い失敗や辛抱を正当化していい経験だったといえるようになります。

(昔、大人のアドバイスはつくづく意味が分かりませんでした。うまくいかないから楽しい、と。しかし気づけばぼくもそういう偉そうな立場から助言していることに大嫌いだった大人になってしまっていると感じます。)


今、老いる中で若い可能性に奉仕できることは

”失敗に目を向けさせてあげる”

ということなのかなと思います。


成功していこうと思えば、失敗に目を向け改善していくこと、目を向けたくなかった不足に目を向けて満たしていく。その時絶望や劣等感に打ちのめされ、そんな自分とどうやって向き合っていくのか。

楽しいから、うまくいくから頑張るではなく、”辛いけど、うまくいかないけど”頑張ってみる。

そういう見方を植え付けて、そばに立ってあげたいものです。