2025/11/11
その人らしく
学習塾というからには合格させることが自分の仕事の領分であるということは理解しています。
受験期は僕も確かに、結果を追い求めて、効率よく学習を進めるということをしていました。少しでも高い偏差値の学校に行けば就職が有利になり、安泰な暮らしができる。そうでなくとも学歴で人の優劣が決まるから勉強をしたほうがいいという大人の、社会のメッセージを過剰に読み取っていたのかもしれません。
しかし本来勉強とは有用なものであります。てこの原理を知っていればものを持ちあげられます。歴史を知っていれば政治が分かり、旅行を楽しめる幅が増えるかもしれません。本来もっとプラグマティズムで自分のためのものなんだと思うんです。
結局のところ、国が指定した教科でいい点を取れる人間が出世する仕組みは、国に都合のいい優秀な人間を集めることにつながっています。そしてそんなふるいにかけられた多くの劣等生は隙間のような仕事を見つけて従事するしかないのです。
江戸時代は己の心を磨くための教育でした。直接は出世につながるものではないけれど、人とはどうあるべきか考え実行し身を修めていました。そこには落ちこぼれはなくただ自分に課したルールに背けば劣等性、自分のルールを守れば優等生ということで完結していたんだと思います。
例えば、国語の点数が低いという劣等性がいました。
今の教育では語彙力を叩きこんだり、文法を丸暗記させるという方法を取ります。実際試験がそう向かわせるような方式をとるからです。
しかし僕は思考力を養うことそれ自体が重要だと思います。つまり考えてもらいます。これは何でしょう?という問題に対して、4択の中から選ぶんじゃなくて、「こうだからこう」と説明を無理やりにでもしてもらいます。無理にでも答えを作らないといけない時、人は考えます。はじめは「先生分からん」となにも言葉が出てきませんが、少しずつ単語が出てきて「ここまではわかったけど、こっからが分からん」と言い出します。思考が前に進み始めます。
テストですぐに結果が出るというわけではありませんが、間違いの質が良くなったなと感じます。それは上からの評価、つまり学校のテストからみれば劣等性であることに変わりはなく、その学生は傷ついたままだったかもしれません。しかし思考が進んでいる良質な間違いに変わったことは僕だけでなく本人も手ごたえを得ているからでしょうか、確かに喜び前に向かう表情をします。
僕の関心は落ちこぼれという概念にあります。何かの上からの尺度に巻き込まれずその人らしく成長してほしいのです。何かゴールを設定すると人は劣等感ばかり感じます。人を上から評価するのは学校に任せるとして、我々在野の教育者はその人らしく成長することに喜びを感じていたいと思います。